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BT 一連のスレッドとてもおもしろい。「身分登録」という把握の仕方はなるほどというか、国家が個人をどう管理・認識するかみたいな話かとおもう。
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「戸籍」が身分登録の一種であるというのは、国家が個人をどう把握し処理するかで、某の子供というのは法的な単位として設計されているとおもう。ただ、これが単に特定個人を認識し把握できるためのなにかというだけのものであるはずもなく、家族とは国家が設計する法的単位でもあり、国家戦略の一部である。
「家族」は国家のグランドデザインの一部として作られているのはあきらかだとおもうけど(むしろ主要な存在かもしれない)、実生活上はあたかも実体として存在するものであるかのように扱われる(法的な実体なんだけど)。
ばあちゃんが「家族はええ」とか「家族だからみんな助けあわなければいけん」とか、そういうことをずっと言っている。祖母が家族という幻想のなかにいて、なんとなくみんなその夢を壊さないように振る舞うんだけど、「ばあちゃん、それは国家によって作りだされた幻想だよ」なんて言う気にはもちろんなれない。

そういうのをもやもや思いながら読んだ。

個人の持つリアリティと「家族」という制度とのあいだのギャップは、宮崎駿とか庵野秀明のアニメによく現れているとおもう。まあ、シンエヴァはあまりに予定調和的なオチであれだったけど...。

@tenjuu99 ヱヴァンゲリヲンを家父長制の物語として捉える、っていうのは考えたことがなかったです!(母子関係の方にばかり注意が行ってました)。それは面白いですね!

@lematin もともと、宮崎駿のほうが「家族」という物語を映画のなかで神話的に語っていたのに(トトロ、魔女宅など)、それをヌルいといわんばかりに「家族」が神話でしかないことを暴露したのが、もとのエヴァTV版だった、と考えています。
それがいまでは逆転して、宮崎駿のほうが自由恋愛にもとづく「家族」という物語の不穏さを描きだし(風立ちぬ、君たちはどう生きるかなど)、庵野秀明のほうが予定調和を描いてしまうのは、制度に対する批判的な視点の有無かなとおもっていました。庵野秀明は、「家族」というオブセッションをまさにオブセッションとして、個人の内面に起因する思い込みとして消化してしまうのに対して、宮崎駿は「家族」は「制度」だと見做すように物語設定をシフトさせてきたのではないかとおもおいます。
というようなことを『君たちはどう生きるか』を見終わったときに考えていました。
https://blog.tenjuu.net/2023/09/07/%E5%90%9B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B

庵野秀明が、家族を個人に起因するオブセッションだとして処理してしまうのは、権力関係を不問に付すことでもあり、事実上は長子(シンジ=神児)への権力の付与という構図をもちながら、主人公を弱者男性に偽装するというややこしさがありますね。