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陰徳太平記 輝元卿廣嶋ニ於城ヲ移被事 14

其地ヤ東ニ瀬野ノ大山トテ三里ノ間。
石梯懸桟百歩ニ九折シテ。
仰望ムニ垂線縷。
南ニ草津ノ海。仁保ノ入江有テ。潟鹵数里。

このへん、原文が説明不足なため私の推測による意訳が増えます。私は古文献の専門家ではない素人なので誤訳があるかもしれません。注意よろ。

訳:
(城が築かれた)その地ときたら、東に三里(約12km)の所に瀬野の大山という高峰があった(つまり東から来る敵に強い立地である)。
石橋や木橋(のかかる郭内)を何度も曲がりながら百歩ほど進んで。
(本丸天守から)期待して眺めてみれば、バッチリお見通しが通っており。
南には軍港に適した海、すなわち仁保島の入り江があり。
(宅地に出来そうな)干潟や塩気の多く農業に向かない土地が数里にわたって広がっていた。

コメント:
入場の話で、瀬野に触れた直後の「石梯懸桟~」なので、九折というのは城下街路の話と読みたいところですが、百歩(約180m)とあるので、主郭内の話としました。
アーチ技術がないので、太田川に石橋も難しいと思います。
自分の記憶でも大手門から本丸まで九回くらい曲がったような。

>仰ぎ望むに線縷を垂れ。
は説明不足も甚だしい。直訳すれば
「仰ぎ望めば糸筋がたれ」
なるほど、わからん。
仰ぎ望むを「見上げる」と解釈すれば天守の話と思えますが、それだと「線縷を垂れ」がよくわかりません。
まさか「傾いておらず垂直であった」という自慢にならない話じゃあるまいし。
その直後にも天守の記述は出て来ず、南方向の描写がされています。したがって「仰ぎ」は見上げたのではなく本丸から南方向(大手方向)を「期待を込めて見た」あるいは「遠方を見た」と解釈しました。
そう解釈すれば「線縷を垂れ」が「お見通し」のことであろうという推測が成立します。

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>南ニ草津ノ海。
は草津(いくさの津、すなわち軍港)です。実際、南に加子町(船乗り町)が形成されているので、事実と合致します。
海路の確保こそ広島移転の目的だったので、ここは目的が達成されたという記述でしょう。
>仁保ノ入江有テ
も、そこが良港であることを強調するものです。

>潟鹵数里。
鹵は「塩気のある農業に向かない土地」の意味。
山中の吉田では、京都のように混雑して万事に妨げあり、という理由で河口へ新都市建築したわけです。
したがって、
「干潟や塩地が多いのは将来の人口増加に埋め立てで対応できる土地である」
という賞賛と解釈しました。

続きは後日。

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