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子孫永ク武備ノ業ヲ伝可地ナレト申ニヨツテ幸ニ黒田孝高新庄ニ逗留ナレバ。
輝元ヨリ地形ノ可不可監ミテ給リ候ヘト。

「子孫が末永く武士業を営める土地だ」
と二ノ宮は五箇ノ庄を推した。
運よく黒田孝高が新庄に滞在していたので、輝元公は五箇ノ庄の地形の可不可を見て欲しいとお願いした。

(コメント)
運よく……と記されていますけど、おそらくはアドバイザーとして派遣されたのでしょう。軍港を持つ河口への移転は大陸進出を見据えた秀吉の意向であり、その要求を呑んだ見返りに技術官僚の黒田孝高が派遣され、畿内の進んだ技術供与が行われたと見えます。

広島城石垣はそれまでの毛利の積み方ではなく畿内の積み方で築かれています。このとき毛利と秀吉は利害一致の関係にありました。広島城が対秀吉の城という説や、黒田孝高にだまされて水攻めに弱い広島を選地したという説は成り立ちません。

秀吉は誕生したばかりの政権を軌道に乗せなければならない時期でした。小さな偽詐術策は経営上、デメリットの大きい時期でした。
一方の毛利は、それこそ元就時代の偽詐術策のうらみつらみが元就の死後に噴出し、輝元は国内を抑えるのに精一杯、強力な後ろ盾が欲しい時期でした。

してみると山城の吉田より防衛力は下がるのは百も承知で、秀吉におもねって河口の城へ移転を決めたのでしょう。秀吉も見返りにNo.1技術官僚を派遣したと。
その辺の裏事情を明らかにできないから、輝元は
「国君ノ居所ハ萬人ノ都会所也」
と言い、孝高は「幸ニ逗留」という表現になるのです。

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ところで文中の「新庄」は、どこなんでしょうね。
広島市新庄町だと、広島城に近すぎます。これからそこに都市を築こうかって話なので、それじゃおかしい。
北広島町の安芸新庄だと、山奥すぎて、なぜそんなところにいるんだ?となる。
なので、安芸木村城(別名・新庄城)かと考えました。

続きは後日

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『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』を書きました。 | ブログ桝席 blog.masuseki.com/?p=13620

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